にっきもどき。

ちんぽから社会問題まで広く扱いますが日記らしい日記はひとつもないらしいです。現場からは以上です。

僕たちは何を見て、何に応え、何を信じて生きていくのか

エレベーターホールに着くと同じ会社の人が数人エレベーターを待っている。

 

誰にいうわけでもないその集団に向かって声をかける。

 

「おはようございます」

 

大きくも小さくもなく、抑揚もほどほどに感情も対して込めずにその言葉は喉の振動を経て、口から目の前のなんでもない世界に飛び出していく。放たれた言葉を受けてそこにいる人々はまた誰に言うわけでもなく脊髄反射的に負けず劣らず「おはようございます」とつぶやくのだ。

 

いったいどこでどうやって交差したのかもわからない。もしかしたらそれは平行線上に伸びるパラレルワールドのように一生交わることはないかもしれない。

 

「木を見て森を見ず」

 

全体を見ずに一部の事象だけにとらわれる様を指す。目先の利益ではなくその先を見ろとかそういうたぐいの意味としてとってもらってもいい。

 

曲がりながらも一端の社会人として働いていると「全体を見ることが大切だ」と言われることは多々ある。ほんとに多々ある。なんならそれをいった奴が勝ちでそれ以外は負けといった雰囲気すらある。それくらい物事を俯瞰的に捉えて、目先にとらわれないことは大切だ。

 

 

 生きてるだけでマウントを取り続けないといけないのはとても疲れる。会社員とはそういう生き物で、会社の利益を上げるより自分の評価を上げることのほうが実は極めて大切という悲しい生き物だ。

 

 

 

社会人になってもう数年立った。

 

インターネットの爆発的な成長と共に、グローバル社会化になってきたと思う。この数年で外国人労働者は爆発的に増え、もう市内の飲食店でベトナム人が注文をとってきてもなんとも思わなくなった。むしろ多少ぶっきらぼうな接客が逆に心地良いとさえ思うときもある。

 

時にあのこちらをじっと見てくる瞳に吸い込まれそうにもなる。彼はなぜこうも強く僕のことを見てくるのだろう。あんなに見られたら焦る。焦って豚丼と豚汁なんて間抜けな注文をしてしまう。しまった、豚がダブってしまった。

 

しかし、僕が思っていたグローバル社会と少し違う。僕の中のグローバル社会は、あくまでも日本人が国を飛び出して海外で活躍したり、その逆だとしても英語をしゃべれないとコミュニケーションが取れない。それくらい英語という言語には他を寄せ付けない圧倒的な神話性があるとさえ思っていた。

 

しかし、蓋を開ければ未だに英語が全く喋れない自分がいる。それどころか日本に来た外国人が日本語を喋っている。全く予想していなかった。あまりにも英語ができなさすぎて、きっとホワイトカラーの仕事は多分無理だろうと諦めていた僕がサラリーマンなんかやってたりする。人生なんてほんとにわからないもんだ。

 

別に英語が嫌いなわけではなったがどうも脳みそがその言葉を意味をスペルを覚えることを拒み続けていたのだ。

 

エレベーターに乗り、ぼんやりと増えていく数字を見ながらふと中学の担任を思い出した。

 

担任は英語教師だった。まだ20代かそこらで、美人で英語の発音がキレイだった。てんで英語ができなった僕だけど、発音だけはなぜか自身があって先生はいつも褒めてくれた。本当はただ滑舌が悪いだけだったのに、嘘かホントか褒めてくれた事実、それが妙に嬉しかった。

 

僕の英語の点数が20点だった時も流暢な発音で「so bad」といって叱ってくれたが、その意味を理解するまでにそれなりの年月が必要だった。その時は新しいチョコバットの種類かと思った。アイス味かな!おいしそう!とかそんなことを思っていた。先生ごめんなさい。

 

彼女の授業では、教科書の内容以外にも隣の席の人同士で英語で会話するトーキングの授業があった。内容はいたってシンプルで、今日の調子はどうですか?と聞いて「まぁまぁです」とか「元気です」とかそういうことを日本語でなく英語で答えるといった内容だ。

 

もちろん模範解答は用意されており、大抵の生徒はその中から気分に合わせて選択し会話する。実際には、英語で会話するというよりは暗記した文言をそれっぽく発しているだけなのだが、それでも普段慣れていない言語で意思疎通を図る事が気恥ずかしかった。隣の席の女子と日本語ですらギリギリでしか会話ができないのに、英語だとその恥ずかしさは更に増した。

 

なまじ発音がいいなんて乗せられてた僕はさぞ気持ち悪かっただろう。「アィンファイン!テンキュッ!」とか元気に言ってたに違いない。ガリガリでちびだった僕は少しだけ知能のあるゴブリンに見てたかも知れない。

 

まぁ、壊れたファービーみたいなやつはさておき、本当に英語が達者な生徒たちは、通常のコンテンツだけではなく自由に先生と英語で会話するというネクストステージがあった。ただこれには、なにか基準があるわけではなく、喋ってみたい人がチャレンジしてるだけでようは本人のやる気次第だった。ただ、本能的に僕は一生行けないと思ったし、案の定一度も行けなかった。失敗するのが恥ずかしかった。

 

ただこれだけは僕だけというわけではなく、クラスの大多数はネクストステージに行かなかった。みんな僕よりテストでいい点とってるのに皆その一歩を踏み出すことはなかった。クラスの交換日記に自作の詩を書いて載せていた僕でさえ、恥ずかしいと思うのだからそれは仕方がないことだろう。

 

しかし、チャレンジしている人たちは本当にすごかった。僕が知らない英単語で、文法で、会話どんどん成立していく。魚市場で行われているセリのようでもあったし、濁流の終着地点、怒号をあげる滝のような勢いもあった。それがあんまりにもすごい速度で進んでいくので、もしかしてどっちも本当は適当に喋ってるだけなんじゃないか?とすら思った。タッカラプト・ポッポルンガ・プピリット・パロ、多分そんな事を言ってた気がする。

 

結局、その後も英語という言語に対する苦手意識は結局拭えなかったし、今でも英語を見ると読み間違えると恥ずかしいのでなるべく読むことを避けるし、どうしてもという時は読み方を調べたりする。もうどれを間違えたら恥ずかしいとかそれすらわからないのだ。

 

この授業にはルールがあった。それは相手と目を合わせて会話するということだった。恥ずかしくても相手の目を見て英語で喋りなさいと先生は私達に言い続けた。

 

英語という言語は、主張に近い。日本語のような難解に言い回しが少なく、大変わかりやすいらしい。そういう言語を扱うのであればやはり態度もそうであるべきだという考えだと思う。しかし、それは言語の枠を通り越して対話の基本を我々に伝えてたのだと思う。

 

相手を知るという行為の中で最もシンプルでかつ、感覚的で独特なニュアンスまで感じ取れるのが会話だ。少なくとも初対面相手に失礼な態度を取らないようにするためには、声が小さかったり出なくても目くらいは合わせるべきだ。それだけでも印象はだいぶ変わる。これから来るグローバル化に向けてせめて態度だけでも学んでおきなさい。きっとそういうメッセージが隠されていたのかも知れない。

 

そう思うと、僕が不本意ながらも豚丼と豚汁を頼んでも顔色ひとつ変えなかったベトナム人店員は、やっぱりグローバル化した未来の1つなんだ。

 

彼らも不安なんだ。そりゃそうだ。都会の飲食店なんて馬鹿ほど忙しい。ヤバイ客もいるだろう。それでも彼らはめげずに一生懸命に働いている。言葉が通じない。その不安はきっと計り知れないほどだ。暗い闇の中を手探りで歩くような心細さもあれば、敵対する群衆に向かい説得するときのような恐怖もあるだろう。

 

あの吸い込まれそうな瞳は、この世の中をちゃんと前を向いて生きていく。そういうメッセージが込められているのかも知れない。

 

僕はあの時、ネクストステージに行くべきだった。恥を掻きたくないプライドを捨て、闇より深い不安を背負ってでもだ。そう思うと無性に悲しくなってきた。挨拶なんて簡単なこと当たり前にできると思っていたのに、実は全然出来ていなかった。木を見て森を見ずだった。

 

 

挨拶はした相手の心としっかり向き合うべきだ。本当は一人ひとりと挨拶をしたほうがいいとは思うが、それもTPOが大切だ。今この場で、全員に挨拶をするのは、かなりの危険人物であるだろう。

しかし、惰性ではだめだ。だからこそ声量ではなく気持ちを込めるべきだ。それは全ての基本でもあり、本当はとても簡単で、僕らが生きていく中で1番大切なことでもある。

 

気を取り直して僕は改めてみんなに向かって挨拶をした。 ここは少し気取って英語で噛ましてみよう。先生!僕は今、あなたに教わった言葉で一歩を踏み出しましたよ!!

 

 「goodmorning!Everyone!」

 

 

 

 

 

エレベータを待っていると、死んだ目の同僚がぼそぼそと「おはようございます」と言って自動ドアから入っていた。こいつはいつもこの調子だから、いつ変なことをしでかすか不安なんだよな…くわばらくわばら

 

なんてことを考えるとその同僚は、エレベーターを待つ我々の前に陣取りこっちを振り返って突然「軍のモーニング、エビフライ!」と叫び始めた。

 

なんだ?こいつ右か?右だったのか?だとしても朝食って言えよ。こええええええ

あまりの恐怖にこの後警察を呼びました。

 

 

 

とにかく突然人は発狂したりするんでみなさんも気をつけてください!

 

 

fin